神田の視線
こんにちは。
はなひ堂新井です。
先日は神田の古書会館で交換会に参加しました。
当店は自店向きでない仕入れがあった時、または仕入れが少ない時に神田の交換会を利用しており、今も仕入れが足りない状態となっております(皆様の買取依頼をお待ちしております!)。
そのため弟と練馬で降りて目白通りを通って神田に向かうという恒例のルートで向かいました。
神田まで行く新潟の古本屋は私が知る限り3店しかないのですが、遠出しない方達は交通費の問題もあるためにそうしないのかなと思っています。
私もせっかく行ったのになにも買えない…となるのだけは避けたいという思いから何点か無理して買ってしまうものもでてきます。
それを避けてスマートに買う、ということができたらいいのですが同業者との競り合いはそれをさせてもらえないというか、無理して買う人のみが買えるというか、こんな金額で買ってちゃんと売れるんだろうか?買わなきゃよかったのではないか?と心配になってしまう金額でしか買えないという、なんだかよくわからない面があります。
とはいえ市は仕入れたり売れたりということもそうですが、古本屋の人格形成に影響があるという面もあり、それも大事な側面かと思います。
例えば弟は神田へ行くようになり査定が幾分うまくなった気がします。
そしてその査定は買取→販売を通した経験ではなく、落札者の金額を見て「ああいうのはああいう金額で買えばいいんだな」という反省(?)を通して形成されています。
簡単に言うと彼は関東の古本屋っぽい査定をしている気がします。私も若干そういった傾向はあるのですが、彼は私と違ってバックグラウンドである買取の経験が私よりも浅いため、その影響が強いのではと思っています。
要は交換会により関東の視線が折りたたまれるわけです。関東の視線が内面化する。
すると実際の買取でもその視線が出てくることがあります。この本は関東ならどう値付けされるのだろう?神田でならどう評価されるだろう?
そして折りたたまれた視線は本だけでなく己にも向けられることになります。
当店はどう評価されているのだろう?神田にあったならどんな古本屋なのだろう?
この深淵を覗いている者は、こちらの深淵も覗いています。
当店はもちろん新潟にあり、その存在価値はそこでの活動に深く根付いているのですが、もはやそれは許されないのかもしれません。
もはや神田の視線で自分を見ているのですから。
神田の古本屋として自店の強みを探ること。
自意識過剰のようにも見えますが深淵から覗き込まれたからにはそれに答えるしかないという気にもなっています。
はなひ堂ブログ 2017年8月27日