たまには本の話-南方熊楠全集とか
こんにちは。
はなひ堂新井です。
倉庫内で本を運んでいると、片隅にある未出品の全集と目が合ってしまいました。
南方熊楠全集です。
古本屋をやっているとたま目にする全集ではあります。
ライバルである柳田国男の全集は文庫化されているのですが(というかライバルと言ってよいのかわかりませんが)、こちらはされていません。
といっても気落ちする必要はありません。
私は最近、無謀にもジル・ドゥルーズの著作を立て続けに読んでいるのですが、「千のプラトー」はハードカバーで読み、「アンチオイディプス」は文庫で読んだ感想から言うと、ある種の本はその重量こそが重要なのではないかと思うに至りました。
ある種の書物はある種の加速度を必要とします。その加速度によって一気に内容を把握する、または把握できないまでも雰囲気をつかみ取るのが醍醐味だと私は感じているのですが、その加速度を生み出すのが本の重量なのではないかと思うに至ったのです。
どういうことかというと、「千のプラトー」のほうは600ページ以上もあるハードカバーで片手では持てない重さなわけです。それを読むにはきちんと椅子等に座り、両手で、または机の上に置いて然るべき姿勢で読まなければいけません。そしてその姿勢で読むと必然的に本に向かい合うことになり、それが加速度を生み出すのです。
それでは600ページ以上もあるハードカバーに対して文庫はどうか?寝ていても読めてしまいます。そして寝ころびながら読んでいると娘がお腹の上に座ってアンパンマンのエンディングテーマを歌い始めてしまう。そこまで事態は深刻でないにしても(?)、眠気によって読書の気がそがれてしまうということはあり得ます。そこでは加速度は生れません。
そして実際、「千のプラトー」ではドゥルーズの熱い情熱をひしひしと感じながら読んだのですが、「アンチオイディプス」は何か退屈なテーマだなぁ、欲望と資本主義のくだり以外興味ないなぁ(そしてそのくだりもあまり理解できなかった)と思ってしまったのです。
人は電子書籍か、いや紙の本かとデバイスの二択を考えますが、読み込まれるハードウェアについても考えてもいいのではないでしょうか。
つまり人間はいかにして読むのか、どのような姿勢で、状態で読むことが圧倒的加速度を生み出すのかを考えてもいいのではないでしょうか。よくないでしょうか。ただの気のせいでしょうか。
例によって話がよくわからなくなってしまいましたが(^_^;)、南方熊楠全集に話を戻します。
南方熊楠を知るために2冊の入門書を読んだことがあります。
一冊は「縛られた巨人-南方熊楠の生涯 (新潮文庫)」で、もう一冊は「南方熊楠-日本人の可能性の極限 (中公新書)」です。
前者は完全な伝記で熊楠の生涯と人となりがよくわかります。
熊楠のめちゃくちゃな性格と生き方が余すところなく書かれていて、彼のパーソナリティーに引き込まれたのを覚えています。
後者は熊楠の思想に焦点を当てながら中公新書お得意の流れ「とはいえその思想を知るにはその生涯にも触れなければならない」のような一文から伝記に言及するという、思想と生涯をバランス良く書くことをを目指した構成となっています。
と、ここで気付いたのですが中公新書お得意の流れと書きましたが、ちくま新書とごちゃまぜにしているのではないか?というかちくま新書の西洋哲学系入門の構成と完全にごちゃまぜにしていますね。深くお詫び申し上げます。
さて、熊楠全集に話を戻しますと、本全集には彼のライフワークである博物学に関する論文のようなものは全くといっていいほど収録されていません。
書簡にそんな内容のものが若干収録されているように思いますが、パラパラっとめくった限りでは論文という形式でのそれは見当たりませんでした。
なので私的には柳田とライバル関係にある民俗学者、という印象がぬぐえません。
そして最大の見どころ(?)である「柳田との往復書簡」が8巻に収録されております。
「縛られた巨人-南方熊楠の生涯 (新潮文庫)」で書かれていたように、果たして柳田は「きし」に手をつけたのかそうでないのか?
南方熊楠全集に収められている書簡は熊楠のものだけです。
ただ平凡社ライブラリーから「柳田国男・南方熊楠往復書簡集(上、下巻)」という本が出版されていて、こちらは柳田と南方の両書簡が収められており、往復書簡として読むことができます。
そのため、読んでスリリングなのはこちらのほうかもしれません。
はなひ堂ブログ 2017年10月19日