新潟はフーコーのものになるだろう
先日、良寛や会津八一などの郷土関係の本をお売りいただいた際に本棚で異彩を放っていたのが、画像の本です。
ミシェル・フーコーです。
もちろん西洋哲学、海外文学がびっしり…という棚にあるというのならばわかるのですが、これが考古堂や新潟日報社の書籍の隣にポツンと佇んでいるのですから、そこに違和感を感じたのでした。
フーコーといえば言わずもがな、社会学系の思想家として現代思想界では最重要人物の一人です。
生権力や監視社会についての諸々など、著者の書籍は数冊しか読んだことのない私でさえも彼の発明した重要概念をいくつか知っており、その影響力は計り知れません。
どのくらい社会に影響が及んでいるかというと、ためしにテレビのニュースのコメンテーターの発言を見てください。それらはほぼフーコーの書いていたことであり、フーコーの世界をはみ出るものではないというのが私の勝手な印象です。
「世界はフーコーのものになるだろう」とドゥルーズが書いた通り、まさに世界はフーコーのものとなってしまいました。
そのフーコーの書籍が新潟の郷土関係書籍の中にある…世界がフーコーのものならば新潟もフーコーのものということなのでしょうか。
一体何を書いているのかよくわからなくなってしまいましたが(^_^;)、実はこの書籍は今年になって買取させていただいたのが2回目です。
1度目も全く別のジャンルの本をお売りいただいた際にポロリと入っていて「あっ!」と思った記憶があります。
そして今回です。何か運命的なものを感じずにはいられません。
とはいえ個人的には本年度の私の個人的読書はジル・ドゥルーズに傾倒しており(それは息子が誕生して生活がカオスになったことの反動として、否、むしろよりカオスを呼び込んで魂を鎮めようという無意識なのかもしれません)、フーコーを読もうという気にはなりませんが、若ければ絶対に読みたい著者の一人ではあります。
本をお売りいただき、ありがとうございました!
はなひ堂ブログ 2017年11月17日